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食べるために生きている

誰にも内緒で20年間ひっそりと、
パックの卵についているシールを集めている。
ガラスケースに並ぶドーナツを見て、
「ドーナツの穴はなんであるんだろう」とずっと気にしてしまう。
そんなエピソードをもつエッセイストの平井萌さんに、
食について感じたことを連載してもらいます。
平井さんの視点で、暮らしの中の食をのぞいてみたいと思います。
月に一度更新します。

ひらいめぐみ
物書き
1992年生まれ。すきな食べものはかんぴょう巻きとメロンパンとおでん。 趣味はたまごの上についているシールを集めること。特技は気に入ったものなら同じものを飽きずに食べ続けられること。
お昼ごはんを食べるときはいつも夕飯のことを考えている。食べるのが遅く、いつも食べている途中でお皿を下げられそうになる。

第3回
白を食べる

なぜか食べていると苦痛に感じる食べものがある。口いっぱいに入れて咀嚼しているうち、だんだん虚しい気持ちになってくるからだ。わたしは一体何を食べているんだろう。

最近、そういう気持ちになる食べものがいくつかあることに気づいた。白米、たまごの白身、マヨネーズ。飲み物だけど、牛乳も。ところが炊き込みごはんや、卵焼き、ソースやケチャップと一緒にかけられたマヨネーズ、カフェオレは好きなのだ。

普段なら早起きできないはずなのに、炊き込みごはんの炊ける匂いがしてきて自然と目が覚める、という経験は何度もある。寝坊してはいけない日には、炊き込みごはんが起きる時間に炊けるように、予約してから寝ることもあったくらいだ(本当は具材を入れたまま長時間放置するのはよくないらしい)。

牛乳も、牛乳寒天なら好きだし、何ならコーヒーや紅茶を頼むときには必ずミルクをつけてもらうように頼んでいる。たまに牛乳が苦手だったり体質的に合わない人もいるので、そういう意味では好きなんだと思う。

たまごも、オムライスやだし巻き卵のように、黄身と白身が混ざっているものは料理でもよく注文している。自分でごく稀に作るお弁当にも必ず卵焼きを入れる。小学校から帰ってきた後フリーズドライのかきたまスープをスーパーでひとつだけ買って、おやつに食べていたこともあった。素材としては好きなはずだ。

ただ、たまごにはひとつ不可解なルールがあった。夫であるのぞむくんとラーメン屋さんに行ったある日、「ゆでたまごは嫌いって言うけど煮卵は好きだよね」と言われたのだ。本当だ。なぜ煮卵は好きなのか。わたしは好きなものを最後に残す癖があり、海老炒飯を頼むと最後は海老だけが残っている状態になっている。それと同じく、ラーメンを食べるとき最後に残っているのは、煮卵なのだ(スープを除く)。

でも、この煮卵のおかげで謎が解けた。

きっと白い食べものに対して、ものすごく強い抵抗があるのだと。炊き込みごはんにすれば白米は白くなくなるし、カフェラテも茶色だし、牛乳寒天にはほとんどみかんが入っていて真っ白じゃない。そして、煮卵もうっすら色づいている。

なぜ白い食べものに抵抗があるのかと聞かれたら「どうしようなく苦痛」としか言い表せないのだけど、例えるなら吹き出しの言葉が全部落ちている漫画をひたすら読んでいるような感覚だ。「なぜ?」と「これは一体なにを食べさせられているのだろう?」という状態で、とにかくこわい。「白を食べる」という行為がよく分からない。マヨネーズかけごはんという食べ方を知ったときにものすごく混乱したのは、白で白を食べることに驚いたからだったんだと思う。

マヨネーズは、白い食べもの界の中でも異端児だ。先日仲良しの先輩であり友人であるEさんとお茶をしているときにマヨネーズの話をしていたら、「マヨネーズは白い絵の具だと思ってた」と言われてびっくりした。つまり、白い絵の具のように他のものの存在感をまろやかにする、という意味である。

たしかにマヨネーズが何かと混ざるとき、一歩下がって相手を立てることもある。とは言え、「海老マヨ」とか「ツナマヨ」みたいに、主役に食い込んで存在感をアピールしてくるイメージの方が強い。「マヨ」という略称もなんだか憎めないし、一度聞いたら忘れられない印象的な響きを持っている。マヨの同業であるケチャップも「ケチャ」と略されることがあるものの、「ケチャ」で検索して一番上に出てくるのはインドネシアのバリ島で行われる男声合唱のWikipediaだ。それに対し「マヨ」はというと、一番上にはキューピーマヨネーズの公式サイト、その次にマヨネーズのWikipediaが表示され、SEO対策もばっちりなのだ。それなのにたこ焼きの上にかけられたときは、ソースを影で支えるように存在感を薄くしている。ケチャップに混ざり合って「オーロラソース」という別物になることも厭わない。マヨは謎である。

話を戻すと、白い食べものにここまで抵抗があるのは、おそらく自分自身の色彩感覚によるものだと思っている。何かを記憶するとき、最も頼りにしている情報は色だ。路線の名前を忘れても、電車の色は覚えている。文字も色で認識している(例えば「ゆ」は紫がかった紺、「な」はほうれん草みたいな緑、のように一音ごとに色を感じる)ので、知人の名前を忘れていても「木村さんだから黄色」、「佐藤さんだから水色」と、その名前の色で思い出せることがある。そうやって色の情報を頼りに生きていると、「白」は色というよりも空白で、whiteよりもblancなのだ。フランス語で「白い」を表すblancには、日本語でも「ブランクを埋める」と言うように、「空の」「実質のない」という意味も持っている。白い食べものを食べることに対する違和感の正体は、空白を食べているようなこわさだった。

これまで、色と味は関係ないと思っていた。茶色いおかずばかりでも好きなものが入っていたらおいしいと決めつけていたし、お弁当のプチトマトはおかずとしての戦闘力が低く、ほぼ彩り担当だ。だけど、色とりどりの野菜が使われた料理を見れば、ものすごくテンションが上がる。赤パプリカと黄パプリカの味の違いが分からなくても、サラダに両方入っているだけで華やかになる。料理に彩りを加えようとする行為は、思っている以上に本能的なもののようだ。そうやって考えると、日の丸弁当は白米がこわい先人がつけた、ささやかな彩りだったのかもしれない。

(文・ひらいめぐみ/絵・山口眞央)

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