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食べるために生きている

誰にも内緒で20年間ひっそりと、
パックの卵についているシールを集めている。
ガラスケースに並ぶドーナツを見て、
「ドーナツの穴はなんであるんだろう」とずっと気にしてしまう。
そんなエピソードをもつエッセイストの平井萌さんに、
食について感じたことを連載してもらいます。
平井さんの視点で、暮らしの中の食をのぞいてみたいと思います。
月に一度更新します。

ひらいめぐみ
物書き
1992年生まれ。すきな食べものはかんぴょう巻きとメロンパンとおでん。 趣味はたまごの上についているシールを集めること。特技は気に入ったものなら同じものを飽きずに食べ続けられること。
お昼ごはんを食べるときはいつも夕飯のことを考えている。食べるのが遅く、いつも食べている途中でお皿を下げられそうになる。

第2回
性別のないごはん

大人になると、子どもの頃の自分が何を考えていたのか忘れてしまう。だから、ときどき両親から小学生だったときの自分の話を聞くたび、ふしぎな気持ちになる。

長年引っかかっていたのが、よく口にしていたと言う「食べるために生きている」という言葉だ。たしかに食べることは好きだった。でも食べる量は人並みだし、食に対する特別な経験をもっていたわけでもない。物心ついた頃から今に至るまで、自分の食への興味の正体が何なのか分からなかった。

そんな長年の疑問に答えが出たのは、引っ越したばかりの新居で荷ほどきを7割ほど終え、「今はたこ焼きのことしか考えられない」と空腹に耐えていたときだった。ふと「たこ焼きって、性別ないんじゃない?」と思ったのだ。たこ焼きだけじゃない。おでんも焼きそばもラーメンも、ケーキもクッキーもおせんべいも、みんな性別はないんじゃないか。性別がないから、わたしは食べることが好きなんじゃないか、と。

人間に矢印が向いていると「男なんだからお肉いっぱい食べるでしょう」「女の子は甘いもの好きだよね」のような言葉は、ときどき日常会話の中で耳にする。これはお肉や甘いものを食べる人に「男の子らしさ」「女の子らしさ」を求めているに過ぎない。

一方で食べものそのものに矢印を向けてみると、たこ焼きはたこ焼きだし、おでんはおでんだ。もし視力検査の「これは右ですか?左ですか?」のようにたこ焼きのことを「これは女性ですか?男性ですか?」と聞かれても、言葉に詰まってしまう。例外として、素材そのものに性別があると「魚は卵を持っている雌よりも雄の方が脂がのっていておいしい」などと言われる。ただ雌が雄よりもおいしいこともあるそうで、食べものの世界で大事なのはやっぱり「おいしいか」「おいしくないか」なのだ。

「ごはんに性別がない」ということ。それはつまり、ごはんの世界でなら自分が自分らしくあることを肯定されていることだと思った。

というのも子どもの頃、自分が自分らしくいることが窮屈だと感じている日常の中でも、ごはんを食べる時間だけは例外だったからだ。わたしは中学校に上がるまで女の子らしい格好ができず、兄のおさがりを着てはよく男の子と間違えられていた。でもかわいい雑貨は好きで、自分のことを「何だかちぐはぐだなあ」と悩んでもいた。

そんな悩みを抱えていた小学生の頃でも、給食の時間はとても好きだった。純粋に毎日変わるメニューが楽しみだったのもあるけれど、それ以上に男女で区別されることなく同じものを食べ、「わかめごはんおいしいよね」「ミートソースとソフト麺は合わなくない?」と感想を言い合えるのが嬉しかったんだと思う。「おいしいね」と言い合うとき「女の子だから共感してくれているんだ」という理屈は浮かばない。ごはんを食べる行為を通じて対話をしていると、目の前の人も自分自身も、ひとりの「ひと」になっていく感覚がしていた。

そうやってクラスメイトと給食の時間を過ごしているとき、気づいたのだ。ごはんの世界では性別関係なく、「好き」か「嫌い」かで共感できるんだ、ということに。何をおいしいと感じるかにおいては、女の子らしさも男の子らしさも必要ない。ひとりひとりの感じ方がまるっきり一緒でなかったとしても、おいしいと思ったら「おいしいね」と言い合うことができる。

「ごはんに性別がない」はもう少し平たい言葉で言い換えると「『おいしい』という感覚に性別は関係ない」である。小学生だった当時はまだ「ごはんには性別がない」という発想には至らなかったけれど、それに近い感覚があることは理解していたんだろう。

女の子なのに男の子の服を着ていた子どもの頃は「自分は人とはちょっと違うのかな」、「普通の女の子の気持ちは理解できていないのかもしれない」という寂しさを抱いていた。それでも、目の前の人と分かり合いたかったんだと思う。だから、ごはんには性別関係なく誰かと分かり合えるかもしれない希望が含まれているのが、嬉しかったのだ。

「生きるために食べる」のであれば、必ずしも誰かと一緒にごはんをともにする必要はない。誰かとごはんを食べる時間が楽しかったから、ちぐはぐな自分でもごはんの時間だけは誰かと分かり合えていると感じたから、子どものときのわたしは「食べるために生きている」と言ったんじゃないだろうか。

目の前の人がおいしいものを食べているときの、しあわせそうな顔を見るのが好きだ。一緒にいる人と「おいしいね」と言い合うのが好きだ。その根底にはいつも「人と分かり合いたい」という気持ちがある。だから、わたしはこれからもきっと食べるために生きていく。

(文・ひらいめぐみ/絵・山口眞央)

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