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ロバート・タソガレンの明後日の朝がくる前に

タソガレンは、豆の薫りを鼻いっぱいに吸い込んだ。
束の間の休憩は、いつも喫茶店で過ごす。
珈琲をすすりながら、食べものに人生を投影する。
人生で起こることは、すべて食に置き換えられる。
すなわち、食事は人生の縮図である。
まさしくそういうことだろう。ぶつぶつ。

vol.9 まぁるくたって、トンガれる

モノコトは、何度か進めていくうちに、カドが取れてまるくなってしまうことが常々。面白味がなく、物足りなさを感じてしまう。しかしながら、一見したらまるくなっていたとしても、いつもどおりの進め方に加え、いつもと違った方向からも、切りこんで進んでいけばいい。実は、中身のほうで、本質的な部分で、トンガリをつくれることがある。

なーんて、「まるく納まるように」と願掛けしたピザで。

vol.8 食卓と地球はつながっている

地球環境や持続可能性への関心度は日に日に増しており、社会的評価軸の1つにもなりつつある。地球温暖化、海洋汚染、水質汚染、大気汚染、森林破壊の5つが、代表的な大問題とされている。それらは、空気、海(水)、みどりの問題とも言える。私たちの食物は、これらを土壌に育っている。当たり前であるが、それらを私たちは食べて、明日の自分そのものにする。「身土不二」という言葉があるように、身体と環境に境界はなく、つながっている。だから、食べることは生きることそのものなんだろう。

vol.7 実は、毎日が新しい

若い頃は見るのも嫌だと思っていた食べ物を、つい最近は食べられるようになった。いや、むしろ大好物になった。そんな経験はないだろうか。このことは、自分が成長して大人になったからではない。舌にある「味蕾」という味を感じて脳に伝える器官が、数週間で消滅し新たに生まれ変わることに大きく関係している。このように、同じ情報や体験でも、受信側の状態が違うと、全く逆の意味や価値を持つことにもなる。今日の自分は昨日の自分と同じではない。変わるし、変わっていい。

vol.6 誰かのひと手間によって、多様でいられる

フランス料理等を食べるときは、フォークとナイフ。日本料理を食べるときは、箸。フォークとナイフは、魚や肉、スープなど料理ごとに専用のものがあって使い分ける。様々な種類があるが、一様なものだ。一方、箸は、食すためのほとんどの行為に対応ができ、その使い方は多様である。ただし、これは調理の段階で、料理人が事前にひと口大に切ってくれているからこそ、たった2本の棒が多様に動け、当人の腹が満たされる。多様性の実現には、当人よりも、やっぱり提供する側のひと手間が必要なのだ。

vol.5 勘違いも、時に素敵なものになる

昔、レストラン客がフライドポテトの厚さに文句を言い、それに意地を張った料理人が、その客への嫌がらせとして極限に薄くして提供した。逆に、当の客は「おいしい」と喜んでしまい、それ以後、全世界で好評を博しているのが「ポテトチップス」だそうだ。行き違いは、本当によくある。心の内はそう簡単に伝わらず、つい勝手に読み込んでしまうものだから。ただ、こんな予期せぬ展開を起こすこともあるから、勘違いも捨てたもんじゃない。

vol.4 ムダがあるからこそ、一意になれる

林檎。人類の歴史上、とても意味を持つ果実。アダムとイヴ、ニュートン、アップル社。「白雪姫」の毒林檎もそうかもしれない。当たり前だけれども、それらは、すべて違う林檎であり、同じリンゴの話である。目の前に色合いや形が違う2つの林檎があっても、ムダな情報を省いて捉えるから、我々の脳は同じリンゴだと認識できる。もし区別をしたいならば、ムダと言われる部分こそが必要なのだ。

vol.3 A+Bは、AとBではなく、Cになる

ラーメンは、本当にさまざま。個性的な店主とともに、20年ほど前から出現してきたように思う。味も一筋縄では言い表せず、「コクがあって、あっさり」「濃厚だけど、のど越しすっきり」など、独特の表現を用いる。よくよく考えれば、コクがあるのにあっさりなんかしないのに、伝わるのだから不思議だ。 ふだんは同居しないはずの2つの価値を並べると、時に、新しい価値がつくられる。

vol.2 わからないけれど、ワカラナイコトとして、入れてみる

最近のぶどうは、皮も食べられ、種もない。ありがたい限りだが、見た目でそれを判断することは難しい。一見してわからないことを、一生懸命に解明しようとして、先に進まないことがよくある。そんな時は、ワカラナイコトとしてまるめて理解してみればいい。噛んでいるうちに、おいしい感覚とともに、答えがきっとわかる。