誰にも内緒で20年間ひっそりと、
パックの卵についているシールを集めている。
ガラスケースに並ぶドーナツを見て、
「ドーナツの穴はなんであるんだろう」とずっと気にしてしまう。
そんなエピソードをもつエッセイストの平井萌さんに、
食について感じたことを連載してもらいます。
平井さんの視点で、暮らしの中の食をのぞいてみたいと思います。
月に一度更新します。
ひらいめぐみ
物書き
1992年生まれ。すきな食べものはかんぴょう巻きとメロンパンとおでん。
趣味はたまごの上についているシールを集めること。特技は気に入ったものなら同じものを飽きずに食べ続けられること。
お昼ごはんを食べるときはいつも夕飯のことを考えている。食べるのが遅く、いつも食べている途中でお皿を下げられそうになる。
先月、電車で一時間強かかる場所へ取材に行った。終わったあと、いつもと違う街でごはんを食べることを目当てに、あえてお腹を空かせたまま取材に向かう。
会社の近くまで戻ってくるころには15時をとうに回っていて、今すぐにごはんを食べないとぱたりと倒れてしまいそうだった。
乗り換えで九段下駅に降り立つ。大学時代に通っていた駅のひとつだった。省エネモードの頭をできる限りぐるぐると回転させ、今から入れそうなお店がないか思い巡らす。
神保町寄りの出口を出て、橋をひとつ、横断歩道をいくつか渡ると、目当てのお店が見つかった。
いつも同じメニューを注文してしまうところ、期間限定の「うなとろ丼定食」に目が奪われる。写真に映っているのは、どんぶりの中に滑り台のごとくごはんの上に斜めがけしているうなぎと、その脇で主役はワシだと言わんばかりにうなぎの隙間を埋め尽くすとろろ。
わたしが知っているうなぎは、他人に厳しい。唯一同居を許しているのは山椒くらいで、その他のネギやしょうがのような薬味すら見かけた記憶がない。
それなのにこのうなとろ丼ときたら、とろろにまんまと隙を埋め尽くされているのだ。
子どもの頃は「なんだか絵の具みたいな味だなあ」と思っていたうなぎも、今では喜んで食べるようになった。さらに大好きなとろろがかかっている。これはぜったいにおいしいに違いない。
値段を見ると、半分がとろろとは言え「うなぎはうなぎですから」という無言の圧力を感じる。つまり、ちょっと高かった。
でもいいよね。だって今日はもう16時前だし。2食分みたいなものだから。店員さんが近くまで来ると、迷わずうなとろ丼のメニューをびしっと指差した。
定食が目の前に運ばれてきた瞬間、甘辛いたれの匂いが広がって、「やっぱり正解だったな」と思った。生唾を飲み込んで一口目を味わうと、思わず「うわ!」と声が出そうになる。なぜこんなに相性のいい組み合わせが、定番化されてこなかったのだろう。うな丼やとろろかけごはんとはまるっきり別物で、足し算ではなく掛け算のおいしさだと思った。
大人になってから初めて食べたものの中で、いちばんおいしいかもしれない。
加えてふかふかのうなぎと、ふわふわのとろろ。わたしはこういう口の中がもこもこする食べものが好きなのだ。
しかし、食べ進めていくにつれて、もぞもぞと落ち着かない気持ちになっていく。このうなぎは、単品で食べたとしてもきっとおいしい。一方で、子どもの頃から抱いていた「絵の具みたいな味」という印象は変わっていない。
もしかして、とある問いが浮かぶ。うなぎのことを「おいしくなった」と思っていたけれど、ほんとうは「おいしくないけど好き」なんじゃないか。ただ単純に自分の頭の中で、「すき」と「おいしい」を混合してしまっていただけなのではないか、と。
今までは「おいしい=すき」であり、「おいしくない=きらい」だった。わたしは大人になってからもずっと子ども舌なので、基本的に甘いものはおいしく感じて、苦いものや辛いものはあまり食べられない。
パクチーやセロリ、みょうがなど、苦手だったものや食わず嫌いだったもののいくつかはここ数年で克服できるようになっていた。でも何味?と聞かれると「うーん、何かヘンな味」としか言いようがない。
これらのことを思い浮かべてみると、うなぎも「何かヘンな味」であって、おいしくはない気がする。じゃあきらいか、と聞かれると「結構すき」と答えるだろう。
たぶん、おいしくはなっていない。
もし「おいしい」ものだったら、それがいくらであってもお金を払いたくなるんじゃないか。わたしの大好物であるかんぴょう巻きは驚くほど安いけれど、一皿500円であろうと1,000円であろうと、やっぱり食べたくなると思う。
だけど、うなぎは「高いなあ」なのだ。実際安くないのは事実であれ、きっとスーパーで500円くらいで売られていたとしても、高いという印象は変わらないはずだ。
じゃあ「おいしくない」ものは悪なのか、というと全くそんなことはない。
パクチーは、あのくせのある感じが料理の味に厚みを持たせているし、セロリも料理に入れることで急にさわやかな味になって面白い。
全部おいしいものだけで作られていると、それはそれとして成り立つけれど、「おいしくない」ものがいると、より味の輪郭がくっきりとする。
グレープフルーツに砂糖をかけたり、すいかに塩をかけるように、「味の方向が正反対のものを加える」というのは「おいしい」を引き出す常套手段なのかもしれない。
結局うなとろ丼がおいしくてすきなのか、おいしくないけどすきなのかは、自分でも考えているうちに分からなくなってしまった。
ただ、きっと言葉にしていないだけで「おいしい」「おいしくない」以外にも、たくさんの感じ方がある。
「おいしい」だけが正義ではないかもしれない。「おいしくない」は悪じゃないかもしれない。
そう思いながら毎日の食事と向き合っていたら、ちゃんとひとつひとつの感じ方に名前がつけられるようになっていくんだと思う。
(文・ひらいめぐみ/絵・山口眞央)