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Shokuyokuマガジン|ショクマガ (@Shokuyoku3) | Twitter
食べるために生きている

誰にも内緒で20年間ひっそりと、
パックの卵についているシールを集めている。
ガラスケースに並ぶドーナツを見て、
「ドーナツの穴はなんであるんだろう」とずっと気にしてしまう。
そんなエピソードをもつエッセイストの平井萌さんに、
食について感じたことを連載してもらいます。
平井さんの視点で、暮らしの中の食をのぞいてみたいと思います。
月に一度更新します。

ひらいめぐみ
物書き
1992年生まれ。すきな食べものはかんぴょう巻きとメロンパンとおでん。 趣味はたまごの上についているシールを集めること。特技は気に入ったものなら同じものを飽きずに食べ続けられること。
お昼ごはんを食べるときはいつも夕飯のことを考えている。食べるのが遅く、いつも食べている途中でお皿を下げられそうになる。

第5回
すきなものが最後に残っているという希望

どれだけ親しい友人でも、分かり合えない部分がある。その事実を、もっとも分かりやすく知る方法のひとつが、「すきなものを最初に食べるか、最後まで残すか」について聞くことだ。

すきな本の話、うまくいかないプライベートの話、最近の世の中に対してもやもやしていること。どんなテーマで話しても「分かる分かる!」と思ったり「ああ、考えているのは自分だけじゃなかったんだ」と安心したりする。そんな気の置けない友人であっても、「すきなものってやっぱり最後に食べるのが一番だよね」と聞いてみると、「え?最初に食べるでしょ」なんてさも当然のような顔で言い返されて、気付くのだ。わたしが知っているこの子のことなんて、まだまだごく一部だったんだ、と。

子どものころから、気づけばすきなものは最後まで取っておくのが当たり前になっていた。

食材の中でもっともすきな食べものは、えびである。「えびの〜」というメニューを見つければ、高確率で注文しているくらいには、えびに目が無い(実際のえびには目があるけれど)。だから、えびピラフを食べれば最後、小ぶりのえびだけがころころとうつわを賑わしていた。

えびピラフなのに、ピラフと一緒に食べないとむしろもったいないのでは? という意見もあるかもしれない。えびを食べるまでの間の、ピラフだけの時間が盛り上がりに欠けるのでは? と思うかもしれない。実際、わたしの母は「好物は最初に食べる派」で、「お腹が空いている状態ですきなものを食べるのがいい」と、最初に食べることの良さをよく聞かされていた。それでもえびだけを残す大人に育ってしまったので、この先腹ペコのときにすきなものを食べる、というシーンはなかなかやってこなさそうだ。

すきなものを最後まで残す理由のひとつに、「最後の後味をすきなものの味で締められる」がある。味というのは、そのときは正確に捉えられているつもりでも、食べ終わればスッと消えてしまう。できることなら、そのおいしさを長く持続させたい。そこで、好物の出番である。

たとえばえびの入ったパエリアを食べるとする。まず、ムール貝やイカなどをごはんとともに楽しみ、お米を一粒残らず食べ切る。最後に、大ぶりの3尾のえびを、一心不乱に頬張る。すると、口の中にえびの味がしっかりと残るのだ。一気にえびだけを食べたことで、「おいしかったなあ」と満ち足りた気持ちにもなる。えびをもし途中で食べてしまったら、全体の印象がぼやけてしまうような気がしている。

つぎに、「何がすきかに気付くことができる」というエンタメ的な側面があることだ。先ほどパエリアを例に出したが、分かりやすい「えび」という好物がなかったときでも、わたしには無意識にすきなものを最後までとっておく習性がある。

だからラーメンやおでん、鍋ものなどを食べたとき、うつわに最後まで残っている具材を見ると「これがこの中で一番すきだったのかあ」と気付くことができる。

ラーメンでは煮卵、おでんでは昆布、鍋ではしらたきが高確率で最後まで残っている。この食べ方をしていなければ、自分が煮卵と昆布、しらたきのことをそんなに好いていたとは知らなかっただろう(ちなみにある日、某チェーン焼き鳥屋さんで大好物の鳥釜飯を頼み、一緒についてくるたくあんを下げられてしまったときはとても落ち込んだ。その出来事から、鳥釜飯が食べたくて注文しているのだけど、最後にあのたくあんを食べるのがすきだと気づいた。つぎ下げられそうになったら「まだ食べます!」と阻止しなければ、と思う)。

そして最大の理由は「すきなものが最後まで残っている」という希望を抱いていたいからだ。十代のころは特に、未来に希望が見い出せずにいた。家族の関係が年々悪化していることも少なからず影響していただろうし、取り柄らしい取り柄もなく、自分の将来の想像なんてするだけ無駄だと思っていた。

大人になったら自分のできることも分かってきたり、家族とほどよい距離で暮らすことができるようになったことで少しはマシになっている。だけど、おそらく根本は変わらないのだ。しあわせを遠ざける癖が染み付いていて、楽しい時間が続くと、ふいにひとりになりたくなる。「現実はそうでないから」と、フィクションにはいつもハッピーエンドを期待してしまう。

それでも、しあわせになることを放棄しているわけではなかった。食事の一皿に、自分にとっての好物が最後まであるのを見ると、まだまだ頑張れそうな気がしてくる。現実はうまくいかなくても、目の前の食事にはちゃんと最後まで希望が残っているから、と。

自分を大事にできていないと思っていても、食事の最後に自分が喜べるようにと、無意識に好物のものを残す。結局ひとの矢印はしあわせに向かっているんだろう。

これからの人生で楽しいことや嬉しいことをたくさん経験する先に、もしかしたら「最後まで残さなくても、もう大丈夫」と思える日がくるかもしれない。その日までは、今の臆病な自分が一生懸命えびピラフのえびを残していたとしても、不恰好な自分への愛として抱きしめていたいと思う。

(文・ひらいめぐみ/絵・山口眞央)

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